新島八重の生涯
2013/03/19(火)
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会津若松探訪シリーズその3。
今回はNHK大河ドラマでもおなじみの新島八重の生涯です。
会津の町を散策しますと、あちらこちらに、八重の桜ののぼりが目につきまして、今日本でもっとも注目されている女性です。
八重の八十六歳の生涯で、最も鮮烈な印象として残っていたのは、会津戦争であったようです。
婦人世界という雑誌のインタビューに八重は次のように答えています。
「私の実家は会津候の砲術指南役でございましたので、御承知の八月二十三日、いよいよ立て籠もることになりました時、私は着物も袴もすべて男装して、麻の草履を履き、両刀を手挟んで、元込七連発銃を肩に担いでまいりました。」
「他の婦人は薙刀を持っていましたが、家が砲術師範で、私もその方の心得が少々ございましたから、鉄砲にしたのでございます」
新島八重は同志社の創立者である新島襄の妻として、心臓病を抱えていた新島襄の早すぎる死別のあとは、日本赤十字社の社員として、日清・日露戦争で、広島と大阪の病院で篤志看護婦として働いたようです。
その後、裏千家に入門し、自宅を改造し茶室を作り、茶道が晩年の八重の心の支えであったといわれています。
八重が永眠したのは、昭和七年六月十四日、京都市若王子に新島襄の墓の隣に仲良く眠っています。
今回はNHK大河ドラマでもおなじみの新島八重の生涯です。
会津の町を散策しますと、あちらこちらに、八重の桜ののぼりが目につきまして、今日本でもっとも注目されている女性です。
八重の八十六歳の生涯で、最も鮮烈な印象として残っていたのは、会津戦争であったようです。
婦人世界という雑誌のインタビューに八重は次のように答えています。
「私の実家は会津候の砲術指南役でございましたので、御承知の八月二十三日、いよいよ立て籠もることになりました時、私は着物も袴もすべて男装して、麻の草履を履き、両刀を手挟んで、元込七連発銃を肩に担いでまいりました。」
「他の婦人は薙刀を持っていましたが、家が砲術師範で、私もその方の心得が少々ございましたから、鉄砲にしたのでございます」
新島八重は同志社の創立者である新島襄の妻として、心臓病を抱えていた新島襄の早すぎる死別のあとは、日本赤十字社の社員として、日清・日露戦争で、広島と大阪の病院で篤志看護婦として働いたようです。
その後、裏千家に入門し、自宅を改造し茶室を作り、茶道が晩年の八重の心の支えであったといわれています。
八重が永眠したのは、昭和七年六月十四日、京都市若王子に新島襄の墓の隣に仲良く眠っています。