ゆい工房社長 幼少時代4
2008/01/04(金)
未分類
私は盛岡市立 北厨川小学校の出身です。(なにも自慢になりませんが)
当時は、越境入学だったらしいのですがバスで通っていました。
幼稚園は盛岡バスセンター裏のさくら幼稚園でしたが、父親が滝沢の巣子で工務店を開業することになり、今、ゆい工房の本社がある巣子に引っ越してきた訳です。
私たちのゆい工房の事務所の向かいには、100円ショップの「ダイソー」と「ツルハドラッグ」が開店し、ずいぶん賑やかになりました。
巣子地区もスーパーと各種病院が出そろい総世帯数4000所帯もある「街」になりました。
ところが、私が盛岡市の中心部から引っ越した当時は、見渡す限り田んぼと畑ばかり。
冬になると数メートル先の庭先をキジの親子がのどかに散歩をしていたし、団地も松尾鉱山から転居してきた方々の「松尾団地」しかありませんでした。
こんな環境の中で、父親は、この地区で最初に現在の「ゆい工房」の前身となる工務店、「川原建設」を創業したのでした。
今年でかれこれ「33年」。多くの皆様にささえられ今日があると感謝しております。
つづく・・・。
当時は、越境入学だったらしいのですがバスで通っていました。
幼稚園は盛岡バスセンター裏のさくら幼稚園でしたが、父親が滝沢の巣子で工務店を開業することになり、今、ゆい工房の本社がある巣子に引っ越してきた訳です。
私たちのゆい工房の事務所の向かいには、100円ショップの「ダイソー」と「ツルハドラッグ」が開店し、ずいぶん賑やかになりました。
巣子地区もスーパーと各種病院が出そろい総世帯数4000所帯もある「街」になりました。
ところが、私が盛岡市の中心部から引っ越した当時は、見渡す限り田んぼと畑ばかり。
冬になると数メートル先の庭先をキジの親子がのどかに散歩をしていたし、団地も松尾鉱山から転居してきた方々の「松尾団地」しかありませんでした。
こんな環境の中で、父親は、この地区で最初に現在の「ゆい工房」の前身となる工務店、「川原建設」を創業したのでした。
今年でかれこれ「33年」。多くの皆様にささえられ今日があると感謝しております。
つづく・・・。